思い返すと・・・
現在、自分は還暦を過ぎたおっさんである。
そのためか、自分がHSPだった自覚が薄い。
しかし、10代、20代、30代くらいまでの自分は、「人と過ごすとぐったり疲れる」「外泊すると眠れない」「人に言われたこと(や変な態度)が引っかかってそのことが頭の中でリフレインしてなかなか頭から出ていってくれない」などなど、多分にHSPな現象が多く、生きづらさ満載だった。
しかも、周りにはその苦しみが理解されない孤独。(hspという言葉自体、概念がなかった時代・・・)
「人に言われたこと(や変な態度)が引っかかってそのことが頭の中でリフレインしてなかなか頭から出ていってくれない」みたいなことは未だに、変わらないので、そこそこ苦労している・・・のだが年の功というのか、「こんな時、どう対処すれば良いか」いろんな技法や知恵のバリエーションが身について苦しさを軽減できるようになった。(解決策を講じれるようになった)
経験値の賜物か・・・
単純に、「歳をとって図太くなった」面もあろうかと思うが、いろいろと経験値が増して、処方箋が身についた面もあるし、人間という生き物に対する理解がぐっと深まったおかげというころもある。
例えば、インスタでフォローしているHSPさんが、「期待されると嫌だ」とリールで表明していたが、なんかわかるのだが、今はあまり自分にはそういう感覚はないかな・・・と。
なんで、なくなったか考えて見ると・・・
人間の複雑さ
信頼して「信じてくれている」場合、それは力になるが、残念ながらそれはよほどの人(本当の愛を生きている人)だけで、大概の人間関係は、「自分の利益になるように相手をコントロールしたい」願望がある(だからと言ってその人が「本当の愛」を持っていないということではないのだが・・・矛盾しているようだが、さほどに「本当の愛」を生きるのは難しい)
早い話、自分の親、父親がそうなのだ。本質的には愛情深い人なのだが、私のことを理解も信頼もあまりしていない気がする。個人事業主として成功する(=つまり小説執筆で食べていける)と信じきれていない・・・(当たり前か・・・笑)・・・そして微妙に、介護や家事負担を増やすことを間接的言動を通して要求するフシがあった(今は、紆余曲折を経て、自立思考になっている)以前は、依存心を許すことが当たり前とする暗黙の要求、期待が嫌でならなかった。
依存とコントロール
父親との経験から分かったのは、人間が、誰かをコントロールしようとするのは、〈依存したい〉という欲求というか、自立していない〈依頼心みたいなもの〉がある時のような気がする。(普通に『頼る』とはまた別のもの*)
健全な相互利益関係の場合、人は自分の一方的な利益誘導のために誰かをコントロールしようとはしない。
相手を尊重、信頼していればコントロールして依存しようとはしない・・・・・(ややこしいが、『依存しているからコントロールせずにいられない』という状態である)
*父のように年齢的に介助や生活のヘルプが必要な場合の「頼る」と「心理的依存心」は別である。弁別が難しいが、この境界線ははっきりとある。
そして……まわりを見ると、多くの親子関係はこうした、自立した個人としての意識が双方に確立していないためのトラブルが多い気がする。
HSPの特質?
話が、逸れたが、HSPの人が生きづらさや悩みや苦しみを抱えやすいのは、こうした「相手の心の無意識領域まで感じてしまう」傾向のためという場合が多いように思う。
自分の場合、「分析して理解すると流せる」のだが、理解できない場合、いつまでも心の負荷として堆積し続け疲労困憊してしまう・・・。
なので、〈流せない想念〉が頭に渦巻いて意識の負担になる場合、分析して深掘りして〈理解〉して対応策を決めてようやく〈流せる〉(軽減化できる)場合が多い。
面倒な性格?
つまり、HSPというのは面倒な性格なのである。
しかし、別の角度から言えば、無意識領域を感じる感受性に優れているので深層心理の達人、自己分析の達人とも言える。
そのため、「相手を理解した上で適切な対処を考えられる」
つまり成長すれば「人を包み込む度量のある心の広い人」(のように見える)面を形成できる、可能性もある。
伸び代(成長のキャパシティ)が大きい
このサイトは、〈昔はHSPだったような気がする〉おっさんが、今、現役で絶賛、HSPな性格で苦労中の人に向けて
「今の時代ならこんな仕事、ビジネスモデルがHSPの人に合ってるかも?」みたいな提案をしてみるという体裁のサイトである。
ある意味、hsp歴50年とかいう感じなので、思いっきり年季が入っているが、その分、経験と叡智のあるベテランHSPと言えるのではないか(笑)と。→ 別の表現をすると、枯れた?(苦笑)
解決の具体例
・・・で、最初の「期待されると嫌だ」と言う話に戻る。
先の自分の経験談に即して言うと、
自分は親父の言動に「介護や家事をもっとしてほしい」という要求を言動の端々に感じて、それが意識に引っかかって重荷で(期待に応えられないので)3年ぐらい近所のマンションに引っ越して毎日、通い介護していた。互いに適度な距離を作るためである。
今は、また同居している(介護量も増えたので)のだが、「期待されてもできることはやるけど、できないことはやれない」「こういうことはやるけど、こういうことはやれないから自分でなんとかせい」と具体的にやれることを明示して意思疎通を図るようにした。(わりに突き放している面もある)
しかし、それでお互い余計なストレスがだいぶ軽減したと思う。
なので三年の別居は無駄でなかったのかなと思っている。
逆に言えば、そういうプロセスを経て、「親に期待されずに、その代わり信頼されるようになった」と言える。
→ つまり、少し前進した。
HSPならでは得られる叡智や体験がある
hspにとって人間関係は面倒だが、だからこそいろんな叡智が得られるし、経験値も高まる。
そんなHSPの人向けに適した仕事として、自分が思うのは、そういう性質を生かして小説やエッセイなどの物書き業や、カウンセリング業、あるいは自然農法で野菜育てて売るとか、手作りの製品を自分で作って売るとか、写真やデザイン能力を活かしたフリーランス業、感受性の強さを活かしたアーティストなどである。
しかし、フリーランス業やSNSマーケティングなどやるにしても、他人や世間一般の人と同じやり方でやる必要はない。マーケティングの基礎ノウハウ、技術面は学必要があるが、自分に合ったスタイルに応用して活かしていけばいいと思う。
今は、ありがたいことにネット環境も整い、AIも活用できるし、そういう点では「いい時代」だと思う。
HSPらしい働き方が可能な時代に・・・
仕事をする意味は、「収益を得る」ということだけではなく、(いや、収益を得るということ以上に重要な意義が仕事にはある。それは、)人とのつながり=社会とのつながりを作れるということ、そしてより大きな全体の中で自分をどう生かすか?学習することができることだと思っている。
そして仕事を通して「自分は何者か?」を広く、深く理解できるようになる。これが生まれてきた意義(意味というか目的というか)を発見することにつながる。→ なぜなら、自分の役割を知れるから。自分の役割を知れることは、生きていく上でとても大きく、生きやすくなる。
そういう考え方なので、収益は絶対的基準ではない。(だが、収益化できないとこの社会では生きることもすらままならない現実に置かれている人も大勢いる)→ 自分がそうである。
収益化が難しいのは「稼ぐことを念頭に置かない方が上手くいく」から
だが、hspの人は、「稼ぐこと」を念頭に置かない方がうまくいくと思う。その理由は別稿でまた書こうと思うが、収益以上に重要なのが、「社会との接点をどう作れるのか?」試行錯誤することである。(自分自身を発揮する道を探す、ということ)
それは自分の活かし方を見つけることだからだ。(なぜ、自分はこの社会に違和感を感じるのか? そういうことの理由まで深掘りして体験的にわかるようになる)
hspの〈器用でない〉性質を生かす
冒頭に書いたように自分はhspという自覚はない。
しかし、分析するとHSP と似たところがあるので、HSP かもしれないと思う。
そんな感じだから、自分が〈器用でない〉からHSP の人もそうだとは限らないのだが・・・
SNSマーケティングとか器用にやれる人を見て羨ましいとは思わないが、自分には難しいな、と思う。
良くも悪くもクソ真面目なのだ。しかし、それを欠点と考えるより、生かせば良いのだと思うようになってきた。
不器用さやクソ真面目さを生かせば良い、と。
そのような〈やり方〉を模索できるのもフリーランス業の良さである。
やはり、今の社会の中でHSP がストレスなく生きるには、フリーランサーとして(しかも通常のやり方に従うより、自分に応じたやり方のバリエーションを創出して)やっていくしかないと思う。
結論
HSPの人に限らず、社会に適応しづらいと感じる人が、自分に適した仕事や生き方を見つける意義はとても大きい。
そして、自分に適した仕事を、自分で作り出していく意義も大きい。それは必ず、全体にも貢献するだろうから。
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